お茶と桜と

今年の桜は例年より1週間以上早く開花している。振り返れば今年の冬は低温で寒かった記憶がある。しかい寒さの底を打ってからは、順調に気温が上昇してきたおかげで、桜は春と判断したようだ。
どこのさくら祭り会場も、今年の準備は間に合わなかったことだろう。観光の関係者は災難である。当然かなり前から計画し、届出などを済まし、広報やポスターなどを印刷し、夜間照明や提灯などを準備しているのである。気の毒である。サクラも生き物であり人間の思うとおりには行かないと、自然界から見せ付けられたようだ。
快晴の3月31日。青春18切符で東海地方の桜を見に出かけた。


東海道線からの車窓では、東京から横浜方面にかけ、沿線の公園などの桜が目に入る。もう満開を過ぎたものも多く、葉桜であるのが残念なところもある。熱海方面はどうであろうか、東京より暖かいので心配でもあった。しかし小田原を過ぎ、真鶴あたりの谷沿いにはまだ満開の桜が散在している。朝日が相模湾に乱反射し、まことにまぶしい。逆光であったが何枚か走行中の東海道線から撮影した。中学を卒業した春休みに、友人と相模湾沿いをサイクリングしたことを思い出した。ちょうどその季節であったが、桜は咲いていなかった。30年以上前のことであった。季節は確実に早くなっている。

梅で有名な岩本山公園に向かった。しかし桜も有名である。小高い山地の頂上付近が富士宮市の公園となっている。標高200mはあろう。JR身延線竪堀駅から山に向かって歩く。途中東名高速道路をくぐり、岩本山公園入り口の看板が見えた。ここから急坂となる。朝はまだ寒かったのでスプリングコートを着ていたが、汗が出てきた。ペットボトルのお茶を飲み、休み休み長い坂を上った。どうもこの山の大半は茶畑になっているようだ。きれいに整列した茶畑が広がってきた。また茶畑の延長に雄大な真っ白な富士山が見え、少し元気が出てきた。

約50分かかったが、ようやく岩本山山頂に到着した。山頂から見下ろした公園は、まだ繁茂していない薄茶色の芝と、その周りを取り囲む壮大なピンクの桜の回廊となっている。この山の標高が高いので、桜は最も見ごろの満開に近かった。多くの花見客がシートを敷きくつろいでいる。振り返ると満開の桜の枝の遠方に真っ白な富士山が見え、こんなに贅沢な景色があるのかと、つくづく思った。富士宮市民は本当に恵まれた市民である。


さすがに自分のように駅から歩いて来た客は少ないであろう。上り坂で見かけたのは他に1名であった。しかし見事である。8合目付近から下は雲がかかって見えないが、山頂のまばゆい白地はまるで横山大観の富士の絵の中に居るようである。春霞で大半はよく見えない季節であるらしいが、この日は富士山頂が見えたことはついていると思われた。


公園にはわずかに屋台縁日が出ていた。時刻は12時。おなかもすいてきたので白いキャンピングテーブルで休憩をすることに。目の前に「富士宮やきそば」があり、それを購入した。相当体力を使い、腹がやや物足りない状況なので、隣の屋台から鶏から揚げを購入した。こちらとお茶で、柔らかな日差しの中の昼を満喫した。周りでもカキ氷を注文するかたや、中華まんじゅうを注文するなど多くの観光客でにぎわっている。
再びカメラで富士と桜を撮りに歩き出す。多くの年配のカメラマンが、大きなカメラを三脚に鎮座し、満足そうにシャッターを切っている。若いカメラマンは少ないようで、ここをみても高齢化社会を垣間見ることができる。

次に島田市に向かった。以前大井川鉄道を旅したが、その際は上流の桜を満喫した。今回は江戸時代の東海道の最大の難所といわれた大井川下流を散策した。
JR島田駅から南方向に進み、狭い路地にだんご屋があった。昼から3時間以上たっていたので、ここで休憩することとした。80才以上とみられる老夫婦が細々と営業しているように見受けられた。ガラスケースに並べてある桜餅と柏餅を注文する。今食べるので皿に載せてもらった。ほどよい塩加減と桜の葉っぱの酸味がマッチする。軒先の縁台で、ひと時の休憩をした。目の前を通る人もなくよく経営できていると思ったほどである。ほとんどの人が車で移動するこの時代であり、軒先で休憩するという行為はほぼ無いのであろうか。かえって贅沢であるとも感じた。


甘いもので満たされ、老夫婦にお礼を言って出発する。野球場の脇を通り抜け大井川沿いに出る。地図どおりの大きな川だ。対岸がかすんで見える。幅1kmはあろう。高さ5mほどの堤防を歩く。ここから見える大井川沿いの多くの桜はすでに葉桜となっていた。やはりここ島田市は暖かいのであろう。
有名な蓬莱橋に出る。通行料100円を支払い、明治時代(明治12年:牧之原台地の茶畑の開墾や生活品の安定な流通のため)に作られたまっすぐな木橋を歩く。幅2m程度、低い欄干があるが、まちがってよろめいたら、大井川へ転落する。水面まで10mはあろう。かなりスリリングな遊行であるが、年配の夫婦なども歩いて帰ってきている。大丈夫か。しかしおばあちゃんがおじいちゃんに「こういう時ぐらい一緒に歩いてください!!」どうも怒っているようだ。おじいちゃんも必死で歩いて、おばあちゃんへの配慮が欠けてしまっていたのであろう。やはり年配の方は無理しないほうがよいかもしれない。せめて欄干をも少し高く上げればよいと思ったが、重要文化財などの指定があれば、それは困難となる。また洪水でも流木が欄干に引っかからないような配慮もあろう。四国の四万十川には欄干すらない。

河床には10cmほどの丸石(2年前に大井川の小石を紀行文発表した)が均等にかつ川幅全体に調和的に敷き詰められ、雅な枯山水の庭をほうふつさせるが、同時に洪水時に上流から運ばれてきた災害の産物でもあると実感できる。
春の風を十二分に感じて、蓬莱橋(長さ897m)を往復した。
次に、島田市博物館を見る。川越と川止めの歴史から江戸時代の東海道と島田宿の繁栄が垣間見えた。最大26日間も大井川の増水が長引いたこともあったという。京都方面江戸方面の両方の旅人が滞在したという。また大名の参勤交代も重なり(大名優先で川越人足が庶民に回らなかった)庶民は苦労したとされる。また川の水深により値段が変動することもあり、夏場の川越は困難を極めたに違いない。最も安い肩車と高額な連台越(4人で担ぐ)、大名は16人で担いだそうである。水位を見る役目は、かなりのベテランの「待川越」と呼ばれ、毎朝水深を測り、瀬固め(毎日変化する深い部分の確認)を行ったようである。

夕方、江戸時代の街並みを再現した川原町を歩く。そこに芭蕉庵という休み処があり、江戸コーヒーというメニューがあり注文する。焼き物に入った濃い目のコーヒーとビスケットが出てきた。これで200円とは安い。80歳くらいのおじいちゃんが1人でやっている。厨房にトレーを下げていくと、店じまいだからお替わりを飲まないかと。もう1杯サービスでいただく。和の器も決して小さくはない大きさであり、コーヒーでおなかが満たされた。礼を言ってまた夕日の差す江戸時代の町並みを歩く。背後から近づいてきた自転車に乗る中学生らしい女の子に「こんにちわ」と声をかけられる。とっさだったので声が出ず会釈だけ返す。観光地らしい町の教育姿勢がうかがえる。


現在は上流に複数のダムが建設され洪水調整されているが、江戸時代には湿った南風が南アルプスに激突し大量の雨をもたらし、これを集め太平洋に吐き出す東海地方ならではの大井川では、なすすべが無かったのであろう。当時は命がけの東海道旅行。古に触れた春の日であった。
Short traveler 2018

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